清世宗雍正帝の陵墓を探していきましょう!

2020-12-21

清西陵は、河北省易県に位置する。雍正帝の泰陵、嘉慶帝の昌陵、道光帝の慕陵、光緒帝の崇陵など4人の皇帝陵や皇后陵、側室のための妃園寝などで構成される清朝皇室の陵墓群。河北省遵化市の清東陵などとともに明・清王朝の皇帝墓群として、2000年にユネスコの世界遺産に登録された。今日は清西陵の一部である泰陵を紹介しよう。

泰陵は清世宗雍正帝とその正室の孝敬憲皇后や側室の敦粛皇貴妃の陵墓で、易県から15キロ離れた標高382メートルの永寧山のふもとに位置し、1730年(雍正8年)に建てられ、8.47ヘクタールの面積をカバーしている。泰陵は、清西陵で建設時期が最も早く、面積が最も大きく、構造が最も完全な皇室の陵墓である。

泰陵の全体は前と後ろの二つの部分に分けられている。前は門、坊、碑、亭で構成され、後は主に地上の宮殿と地下の宮殿である。泰陵の主体となる建築は一番南にある火炎牌楼から始まったものだ。まず目に現れるのは五つの穴がある石造りのアーチ橋で、幅が10.94メートル、長さが87メートル、アーチの高さが4.9メートルで、長方形の青白石で作られている。 アーチ橋を通過した後、西陵の一番長い神道に到着できる。この神道は泰陵の南北を貫通している。神道に沿って北の方へ歩くと、壮大で精巧に彫られた石の牌坊が3つあり、1つは真ん中にあり、残りの2つは少々後ろに、左右に配置されている。

そして大紅門が見える。3つの穴がある大紅門は西陵の主な玄関口である。大紅門に足を踏み入れれば、壮大な古代の建築群が目の前に現れる。このような建築群の前に立てると、清王朝が北京に都を定めた後、すでに遵化県で清東陵を開拓したが、なぜ雍正は易県でもう一つの陵墓を開拓し、祖父の順治に従っていなかったのかという疑問も生じるでしょう。残念だが、この問題についてはまだ定説がない。

引き続き北へ行くと、具服殿、大碑楼、七孔橋、望柱、石像生、龍鳳門、三路三孔橋、碑亭、神厨庫、東西朝房、東西班房、隆恩門、焚帛炉、東西配殿、隆恩殿、三座門、二柱門、石五供、方城明楼とと唖巴院、宝頂などの建築順に並べられている。

雍正皇帝が西陵に泰陵を建てたことから、「昭穆(中国の宗廟での霊位の席次。太祖を中央とし、向かって右に2世・4世・6世などを並べて昭とよび、左に3世・5世・7世などを並べて穆とよぶ)という皇室の埋葬制度」が生まれたという。

その理由は以下のようなこと。雍正皇帝がまず西陵で自分の陵墓を建てた後、息子の乾隆は自分もその父に従って西陵で陵墓を建てたら、清東陵に葬られた聖祖の康熙、世祖の順治帝が冷遇される恐れがあり、もし乾隆が東陵で陵墓を建てたら、父の雍正皇帝も冷遇される恐れもある。この難問を解決するために、乾隆皇帝は「父が東なら息子が西に、父が西なら息子東に」という陵墓の建設制度を定めた。つまり、父が東陵に埋葬すれば、次の皇帝は西陵に埋葬され、父が西陵に埋葬されると、次の皇帝は東陵に埋葬される。この制度によって、清東陵、清西陵が徐々に現在の構造に形成した。これも清朝陵と清西陵の二つの陵墓群と中国明朝以前の歴代の皇室の陵墓建設制度の根本的な違いである。

文・北京旅行網

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