醇親王府

2020-05-29

醇亲王府位于后海北沿,前身是清初大学士明珠的宅第。乾隆五十四年封其十一子永理为成亲王,并将明珠府赐永理。随即按王府规制改建。此府传至毓橚时,被赐予醇亲王奕譞。奕譞的原王府在西城区太平湖东里(今中央音乐学院)。因光绪帝生于此府,成为潜邸,故光绪继位后醇王必须迁出。为区别,醇王原在太平湖的王府称南府,后海北沿的新王府称北府。北府坐北朝南。西部为王府花园,1949年后,进行了整治,是宋庆龄在京的住所(见宋庆龄故居)。东部是王府本身,分为东、中、西三路。中路是其主体建筑,自南而北,街门5间。1910年汪精卫等在此附近策划炸摄政王,一时轰动全国。醇王府的一部分现为宋庆龄故居。

醇親王府は後海の北岸一帯に位置し、その前身が清初の大学士・明珠の邸宅です。乾隆五十四年に、乾隆帝がその第十一番の息子である永理に成親王の爵位を賜った同時に、明珠府も当人に賜ったのです。そしてこの邸宅は王府の仕様に沿って改築され、のちに毓橚に伝われた際、また醇親王・奕譞に賜われました。奕譞のもとの王府は西城区太平湖東里(今の中央音楽学院)にあります。光緒帝がそこで生まれたので、その邸宅も潜邸になり、光緒が皇位を受け継いたあと、醇親王がその邸宅からほかの場所に移住しなければならなかったのです。区別をつけるために、太平湖に位置する醇親王の元王府が南府、後海の北岸一帯にある新王府が北府と称されます。北府は北を背にして南面し、西のほうが王府の花園になり、1949年後、整備が行われて、宋慶齢が北京における住所となりました(宋慶齢旧居に参照)。東のほうが王府の主体で、東、中、西の三路に分けられます。中路はその主体建物であり、南から北にいくと通りに面して五つの門があります。1910年に、汪精衛はこのあたりで摂政汪の暗殺を企んでいて、全国を驚かされました。醇親王府の一部は現在、宋慶齢旧居として知られています。

文・北京旅行網

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