「左祖右社」の古制と紫禁城

2022-04-11

太廟(今は北京市労働人民文化宮)と社稷壇(今は北京中山公園)は紫禁城の重要な構成部分で、「左祖右社(右に社稷壇、左に宗廟を造ること)」の古制のもとに建設された王室祭祖建築群であります。

王室の先祖を祀るおたまや:太廟

今から約600年ほど前に、明の成祖である朱棣は自分が建てた太廟にやってき、一本の木を手ずから植えました。木の年輪は年月とともに形成し、今はすでに600の輪があるかどうかわかりませんが、太廟は六百年を経ても、しっかりと立っています。2008年、北京五輪の開催まであと100日となった4月30日、北京労働人民文化宮太廟で午後7時半から10時半にかけて、カウントダウン祝賀イベントと「第4回オリンピック歌曲選考表彰セレモニー」が行われました。この豪華な古建築も世界に注目されるようになりました。

王室祭祖建築群は古代中国の首都建設において極めて重要な一部であります。元、明、清の三代にわたって、北京は太廟、社稷壇、天壇、地壇、日壇、月壇、先農壇、先蚕壇、孔子廟、歴代帝王廟、堂子などの多くの壇廟からなる壮大で複雑な祭祀建造物の体系を形成しました。

そのうち、天安門広場の東側、紫禁城に向かって左側にある太廟は、数多くの祭祖建築の中で最大規模かつレベルが最も高い建築群で、現在に至るまで590年以上の歴史があります。

背後にある紫禁城は絶え間なく人が行き交い、一年を通しても観光者に最も人気があります。太廟はよく見落とされがちだが、このような場所が明清時代の真の歴史を物語っています。

太廟は明の永楽18年(1420年)に創建され、明・清時代には皇族が祖先を祀った廟でした。天安門広場の西側にある社稷壇と互いに対応し、「右に社稷壇、左に宗廟」という構えを形成し、1988年に国務院から全国重点文化財保護機関として公表されました。

太廟の間取り図から見ると矩形の形をしており、敷地は四方を三重の塀に囲まれています。外囲いはほとんど檜の林に覆われ、二重目の壁の裏側には太廟の主な建造物群があり、最奥の壁は太廟の中核となる建物を取り囲んでいます。

太廟の全体を見通してみると、その配置がきっちりしています。皇城内で紫禁城の外朝三大殿に次ぐ建造物群であり、後三宮より上回る規模があります。建造物群は檜の林に囲まれ、古木が高くて太陽にも遮るようで、皇室の祭祀建築群の中で最も尊い場所として、荘厳で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

ですが、太廟は祭祀建築群として存在してきたわけではなく、その機能の変遷は歴史の発展と密接な関係があります。

1924年、溥儀が紫禁城を退去することにより、太廟は皇室の祭祀所としての歴史を終えました。1926年には平和公園と改造され、一般ゲストにも開放されるようになりました。太廟は「公共空間化」への歩みが始まりました。1950年4月30日、北京市労働人民文化宮が開館しました。現在、太廟では様々なイベントが開催され、そこに秘められた巨大な文化的価値が再認識されつつあります。

■土地と穀物の神を祀る祭壇:社稷壇

明の永楽十八年に建てられた社稷壇は、明の時代に北京へ都が移された後、最初に建てられた祭壇です。社稷壇を設ける制度は古来よりあります。「社」は土地の神を、「稷」は穀食の神を指します。「民は食を以って天となす」という諺があるので、「社稷」すなわち土地、人民です。したがって、中国古代においては天下の象徴とされ、歴代の皇帝は社稷の祭祀を重んじてきました。

北京の社稷壇は、明、清両代の皇帝が太社と太稷を祀った神壇であり、歴代の建築観を踏襲・継承し、国家、天下、黎民に対する古代人の理解をうまく表現しており、壇廟建築体系に極めて重要な地位を占めています。

主な建物である社稷壇は、拝殿の南側にあり、祭祀を行う中心となる部分です。壇の上には、「東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武」や「中央に黄龍」などの古伝に従って五色の土を敷きます。東は青色、西は白色、南は赤色、北は黒色、中央は黄色です。これによって「普天の下、王土に非ざるは莫し」ということを象徴しています。

社稷壇の過去の栄光は、全ては皇室の権力に基づくものです。明の成祖朱棣は北京に遷都した後、「右に社稷壇、左に宗廟」の制度に従って社稷壇を建築し、太廟と遥かに対応します。これから、太廟で祖先を、社稷壇で神(土地と穀物の神)を祭ることが明清時代の皇帝の日課となりました。

毎年、祭祀の数日を除いて社稷壇の門は固く閉ざされ、立ち入り禁止地区として威厳に満ちていました。中華民国3年になってから、内務部の朱啓鈴総長は社稷壇の一般開放を決め、またそこを公園に改築させました。この公園は北京初の本当の意味での公園であり、北京初の開放された皇室庭園でもあります。1925年に孫中山先生が亡くなられたとき、園内の拝殿で慰霊祭が行われました。1928年、中国民主革命の先駆者である孫中山先生を記念するため、中央公園は「中山公園」と改名されました。

皇室の立ち入り禁止地区から一般公開された公園まで、中山公園は北京市民の憩いの場となっており、北京市の公共空間の発展を見届け、この都市の成長も記録しています。

今でも、公園の中をのんびり散策すると、古い神壇のレンガや瓦に含まれている中国の伝統文化の豊かな意味合いと雰囲気を感じることができます。

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