暫定リストに盛り込まれた北京の中軸線の文化遺産:社稷壇

2022-04-19

明の永楽十八年に建てられた社稷壇は、明の時代に北京へ都が移された後、最初に建てられた祭壇です。社稷壇を設ける制度は古来よりあります。「社」は土地の神を、「稷」は穀食の神を指します。「民は食を以って天となす」という諺があるので、「社稷」すなわち土地、人民です。したがって、中国古代においては天下の象徴とされ、歴代の皇帝は社稷の祭祀を重んじてきました。

北京の社稷壇は、明、清両代の皇帝が太社と太稷を祀った神壇であり、歴代の建築観を踏襲・継承し、国家、天下、黎民に対する古代人の理解をうまく表現しており、壇廟建築体系に極めて重要な地位を占めています。

主な建物である社稷壇は、拝殿の南側にあり、祭祀を行う中心となる部分です。壇の上には、「東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武」や「中央に黄龍」などの古伝に従って五色の土を敷きます。東は青色、西は白色、南は赤色、北は黒色、中央は黄色です。これによって「普天の下、王土に非ざるは莫し」ということを象徴しています。

社稷壇の過去の栄光は、全ては皇室の権力に基づくものです。明の成祖朱棣は北京に遷都した後、「右に社稷壇、左に宗廟」の制度に従って社稷壇を建築し、太廟と遥かに対応します。これから、太廟で祖先を、社稷壇で神(土地と穀物の神)を祭ることが明清時代の皇帝の日課となりました。

毎年、祭祀の数日を除いて社稷壇の門は固く閉ざされ、立ち入り禁止地区として威厳に満ちていました。中華民国3年になってから、内務部の朱啓鈴総長は社稷壇の一般開放を決め、またそこを公園に改築させました。この公園は北京初の本当の意味での公園であり、北京初の開放された皇室庭園でもあります。1925年に孫中山先生が亡くなられたとき、園内の拝殿で慰霊祭が行われました。1928年、中国民主革命の先駆者である孫中山先生を記念するため、中央公園は「中山公園」と改名されました。

皇室の立ち入り禁止地区から一般公開された公園まで、中山公園は北京市民の憩いの場となっており、北京市の公共空間の発展を見届け、この都市の成長も記録しています。

今でも、公園の中をのんびり散策すると、古い神壇のレンガや瓦に含まれている中国の伝統文化の豊かな意味合いと雰囲気を感じることができます。

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