北京の中軸線の歴史の変遷

2022-04-20

北京の歴史上、最も古い中軸線は金中都の中軸線ですが、いまは断片的な遺跡がわずかに残っています。元・明・清の各時代は中国古代史におけるもっとも繁栄な時期であり、国を挙げて建設された北京は、中国古代の首都建設における傑作です。北京の中軸線は、完璧な計画・設計、壮大な建設規模、高い建築水準、豊かな文化的意味合いによって、各世代の首都の中軸線建設の水準を完全に超え、その頂点に到達しました。

民国時代、北洋政府は市内と市外を結ぶ交通の便を図るため、中軸線を改造しました。新中国成立後、北京の町は時代の発展とともに拡大を続けてきました。

■元代

元の大都が建設されたとき、設計者の劉秉忠は唐宋の都市建設の伝統を受け継ぎ、『周礼・考工記』の原則にもとづき、南北の中軸線を設計しました。都市が政治の中心であることを示し、「前朝后市」(古代中国の一種の都市配置)の配置があります。

■明代

永楽元年(西暦1403年)、明の皇帝朱棣は北京への遷都を決定し、直ちに宮殿都市の建設に取り掛かりました。明の都市北京の中軸線は、元の大都市の中軸線を踏襲し、それをベースに大きく革新・発展してきました。

一つは紫禁城を南へ1キロメートル拡張し、嘉靖年間に外城を建設し、中軸線を南へ3キロメートル延ばして永定門に至り、奥行きの感覚を強めました。

二つは紫禁城の後ろで万歳山(景山)を建設し、紫禁城の前は川、後ろは山だという配置を形成しました。

三つはもともと帝都の東西にあった神廟と社稷壇を承天門(天安門)の両側に移り、同時に永定門を建設し、天壇、山川壇(先農壇)をそれぞれ中軸線の両側に位置させます。

四つは鐘楼・鼓楼は中軸線の最北端と認定し、鼓楼は前に位置し、鐘楼は后ろに位置します。

■清代

清朝の北京の中軸線は、明朝から受け継いだものです。清朝初期には宮殿や楼閣の全面的な修復が行われ、明朝末には皇極殿、中極殿、建極殿を太和殿、中和殿、保和殿に変え、順治8年(1651)には天安門を改築し、以前の「承天門」を「天安門」に改め、「内部は平和で、外部は安全だ」という文化の位置付けを確立しました。乾隆三十一年(1766)に永定門が再建され、建物が整備され、箭楼が追加されました。順治十三年(1656)には「万歳山」を「景山」と改称し、乾隆十五年(1750)には景山に五つの仏亭を設置し、北京の中軸線が左右対称で中軸がはっきりしている都市構造を極めました。

■民国時代

民国時代、北洋政府は中軸線に改造を加えました。1914年、内務総長の朱啓鈐が北洋政府に「京師前三門城垣工事改正案」を提出しました。重要な内容は、正陽門の箭楼を改築し、正陽門と箭楼の間にある東西の壁取り除き、正陽門の両側の城壁に門の穴を2つ開け、幅20メートルの道路を2本作り、車と人が自由に往来できるようにすることです。

また、中華門内の東西千歩廊を取り除き、長安左門や長安右門の石檻と両側の壁を撤去し、天安門広場を庶民広場にしました。府右街、南長街と北長街、南池子と北池子を建設し、首都は南北回廊を獲得し、社稷壇を北京最初の公園に変えました。

一連の改造により、東単から西単まで、崇文門や宣武門を通らず、長安街沿いを通ることで到着できるようになりました。

■中華人民共和国成立以降

1949年9月27日、中国人民政治協商会議第一回会議で、北京を中華人民共和国の首都とする決議が採択されました。その時から天安門の城楼の改修と広場の大規模な改造が始まりました。1952年、長安街にあった長安左門と長安右門を取り壊し、パレードの行進を容易にしました。1957年には広場の面積を拡張するために、広場の南側にあった中華門と東西両面で向かい合っていた皇城壁を取り壊しました。1954年、天安門前に人民展望台が完成し、1958年、民雄英雄碑が完成しました。1959年、人民大会堂、中国革命博物館、中国歴史博物館の建設が終わり、1977年、毛主席記念堂が竣工しました。

時代の発展とともに、北京の町は外に向かって伸び続け、中軸線の南側には燕墩、南苑、大興国際空港、北端には国家スタジアム、国家水泳センター、オリンピック森林公園があり、北京という都市に新しい風貌をもたらしています。(劉娜 訳)

北京旅游网翻译

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