【北京の無形文化財】天壇中和韶楽の由来

2022-04-22

「天壇神楽署中和韶楽」は2021年、中国第5陣国家級無形文化遺産代表性プロジェクトに認定されました。これは、2006年に中和韶楽が北京市の無形文化財に指定されて以来の大きな成果であり、中和韶楽という伝統文化の発掘、整理、伝承、発展に積極的な役割を果たしていきます。

韶楽とは?もし韶楽の変遷を理解することができれば、国家級無形文化遺産である天壇中和韶楽をより深く理解することもできるでしょう。

韶楽は舜の時代に生まれ、中国古来の雅楽であります。韶楽は九つの章からなるため、『九韶』とも呼ばれます。その後、夏、商、周の各時代はこれを国家の儀式音楽として使われるようになりました。周の時代、韶楽は斉の国に流れ込み、東夷の文化と融合し、徐々に当時の最高水準の音楽である新しい韶楽に発展していました。

韶楽の具体的な用途といえば、主に皇室の祭祀と国家の祝典に用いられます。古代人は音楽の効果に対して、非常に大げさな見方を持っていたので、多くの場合に音楽が使われていました。郊祭(天や祖先への祭りを含む)、朝会、宴饗などの重大な場合に用いられた音楽が韶楽でありました。

韶楽九章の編目については、幾度も変遷してきたため、漢初高祖の迎神大礼の記録だけを見ると、『嘉至』『永至』『登歌』『休成』『永安』『房中祠楽』などがあります。清の時代、雅楽の曲目はほとんど成、寧、安、明を名目にし、例えば、文成(之曲)、武成、粛寧、豊寧、同安、文安、文明、昭明など延べ50、60曲ほどあります。今まで、『合歓曲』『太平令』『千秋詞』などの曲目が発掘、整理されました。

韶楽の演奏楽器は、金、石、土、革、糸、木、匏、竹という「八音」で作られます。それに対応した楽器の中で最も重要なものは、編鐘と編磐です。また、韶楽は礼、楽、歌、舞が一体となった儀式的な音楽であり、それに伴う踊りが必要です。周の儀式によると、楽舞の隊列は、天子が八行八列の六十四人であり、諸侯が四十八人、卿大夫は三十二人、士は十六人しか使えなかったと言われます。

明の初め、太祖朱元璋は南京で天地壇を築いていた時、神楽観も付属させて設置し、提点、知観を設け、祭祀や歌舞などを管理します。そして、中和韶楽という韶楽の名称も元に戻しました。明の成祖朱棣は都を北京に移し、南京の建築構造を手本として大祀殿を建て、大祀殿の西側に神楽観を設け、南京神楽観の道士約300人も北京に移りました。清の時代に神楽観を踏襲し、清が滅びるまで続きました。

明代の永楽18年(1420年)に創建された天壇神楽署は、天に祭る楽曲の演奏を管理する皇室機関でした。南京の神楽観モードを引き継いだため、楽舞官、楽舞生は相変わらず道士が担当し、神楽観とも呼ばれ、天壇道院とも呼ばれていました。

清代の乾隆8年(1743年)、神楽観は神楽所と改称されました。乾隆20年(1755年)には、道士に代わって満州八旗の公達が神楽所を管理し、神楽署に改めました。

1900年に神楽署は八カ国連合軍の英軍に占領されて駐屯となり、神楽署の人々は散り散りとなりました。1914年から、林芸試験場、燕楽研究院、伝染病病院、中央防疫処などの機関が相次いで神楽署を事務所として占用していました。1937年に北平陥落以後、神楽署は旧日本軍1855細菌部隊に司令部として占拠され、それに北院に生物実験室を建てて細菌戦の実験研究を行いました。1949年以降、神楽署は次第に民家や倉庫、機関食堂に転落しました。

ここ数年来、伝統文化の重要性が認識されつつあります。絶滅の危機に瀕していた多くの伝統文化、伝統芸能が発掘・整理され、多くの芸能が保護・伝承されています。2004年、神楽署は解体された建物を修復しました。それに天壇神楽署雅楽センターおよび神楽署雅楽楽団が設立され、中和韶楽の発掘や整理の事業も展開しています。2006年には、中和韶楽は北京市の第一回無形文化遺産プロジェクトに指定されました。(陳丹丹 訳)

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