元大都の土城遺跡と周辺の地名

2022-05-06

元大都城垣遺跡公園の海棠は先ごろ、多くの市民の目を楽しませていました。同公園は朝陽区と海淀区の域内に位置し、東西に走る全長6730メートル、中国最大級の都市帯状公園です。広大な敷地に多くの樹木や草花が植えられており、深い歴史と文化息づく公園です。遺跡公園一帯は、北土城という名前がよりよく知られており、元代の城壁の北側を指しています。公園にある土塀のような高台は、元時代の城壁跡であり、七百年以上の歴史を見届けてきました。北京晩報が報じました。

1215年、チンギス・ハンはモンゴル軍を率いて金の中都(現在の北京)を占領し、1234年に金を滅ぼしました。1256年、フビライ・ハンは旧都(中都)を放棄し、その北東におよそ3里(中国では、1里は500メートル)離れた場所に新しい都を築くことを決めました。1267年に着工し、1276年に完成しました。1271年、フビライ・ハンがモンゴル帝国の国号を元と改め、1272年に中都を大都、すなわち元の国都とし、元大都となりました。

元大都の都市プランは劉秉忠によるもので、水利工事に意を用いたのは郭守敬でした。郭守敬は幼い頃から劉秉忠に師事し、お二人とも河北邢台の出身で、元大都の建設と水利開発に突出した貢献をしました。元大都は長方形で、城壁は黄土で建てられているため、土城と呼ばれています。城壁は、土台の幅24メートル、頂部の広さ8メートル、高さ16メートルです。城壁は土で固められていたが、城門はレンガでできました。

当時、元大都には11の城門があり、北城に2つ、他の城壁にそれぞれ3つずつありました。北城は東から安貞門、健徳門、東城は北から光熙門、崇仁門、斉化門、西城は北から粛清門、和義門、平則門、南城は東から文明門、麗正門、順承門があります。

城壁が建てられた後、雨で流されないように、元の時代には毎年葦で覆わなければならなかったです。元大都の完成は、中国の都市建設史上の一里塚であり、元大都はその時の有名な世界都市でもありました。

明の永楽年間、元代の大都を基礎にレンガ積みの城壁を造りました。城壁防御力をなるべく上げるために、大都の北城壁を南に向けて5里、南城壁を南に向けて0.9里移動させ、東西城壁の土台はそのままでした。明の時代、北京城の城壁は土の壁からレンガの壁に変わり、元の南城壁はすでに残っておらず、北城の旧城跡だけが残っています。

元の土城が明の時代に廃棄された後、大きく破壊されました。数百年の風雨を経て、元大都の約7キロメートルの北城壁と西土城路の約2キロメートルの城壁を含む、9キロメートルぐらいの城壁の遺構が残っています。その後、北城壁の遺構をもとに、元大都城垣遺跡公園が建設されました。旧土城の堀である小月河が復元され、遊覧船の運航拠点として整備され、水関遺跡も保存されるようになりました。当時、小月河が土城の外側にあり、今では小月河の両側には様々な花や木が植えられており、春におすすめ花見の名所となっています。

有名な燕京八景の一つである「薊門煙樹」の碑は、西土城の城壁跡に立っています。「薊門煙樹」は、元々黄色い瑠璃瓦の東屋が建っていたが、後に東屋が破損して残っておらず、石碑だけが残っています。黄色い瑠璃瓦の東屋であったことから、近くの集落はだんだん黄亭子村と呼ばれるようになり、現在は黄亭子社区(コミュニティ)、黄亭子バス停などの地名もあります。

興味深いのは、北土城周辺には元代の都にゆかりのある地名が多いです。最も有名なのは「北土城」で、周辺の地名はほとんどそれに由来しています。例えば、北土城東路や北土城西路などの道路は、すべて北城壁の遺跡に沿って建設されものです。

元大都土城遺跡公園の東側には、土角楼という地名があります。土角楼は太陽宮郷の自然村であり、村の西側に元大都の東北城壁の角楼があったことから名付けられました。元大都の四隅には角楼があったはずだが、実物がなくなり、北東の隅に角楼という地名だけが残っています。

また、徳勝門の外に土城関というところがあります。ここは元大都の健徳門の遺迹です。北土城西路と八達嶺高速道路の交差点にある健徳橋は、健徳門の跡地に隣接していることから名付けられました。元大都の安貞門は、安定路と北土城東路のジャンクションに位置し、その南に安貞橋が建てられ、安貞里、安貞西里などの地名もあります。今の西土城路は学知橋から明光橋に至り、道の南端に「小西門」という地名があり、元大都西城壁の北側にあった粛清門の通称であります。(陳丹丹 訳)

北京旅游网翻译

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