北京内城の城門│「建国門」と「復興門」の由来

2022-05-10

長安街には、北京の市民におなじみの「建国門」と「復興門」があります。この2つの門は、かつて城壁の内側にも開いていたが、他の門とは全く異なる由来を持っています。

建国門と復興門という名前はどこから来たのですか?実は長安街の歴史と深く関わっています。

明清時代、長安街は天安門広場の正面に伸び、長安左門と長安右門に挟まれた「御道天街」でした。長安左門から東単牌楼までは東長安街、長安右門から西塔牌楼までは西長安街と呼ばれています。東西の長安街は全長約3.7kmで、「十里長街」と呼ばれています。

1939年、日本当局はいわゆる「新都市計画」に沿って、東西の長安街の延長線上に二つの開口部を設け、簡単な鉄の門を設置しました。西口は1939年11月に開通したが、東口はなかなか開通せず、1941年9月18日までようやく開通したのです。

抗日戦争に勝利した後、当時社会局の課長だった沈忍庵は、「今は復興と建設の時期だから、この2つの門を『復興』と『建設』と名付けたほうがいい」と考えました。

「建国は必ず成功し、国家は必ず復興し、中国は幸福になる」という当時のポップソングのセリフがありました。この歌詞から2つの門の新しい名称を連想する人も多かったです。 1945年11月9日、「啓明門」は「建国門」と改め、「長安門」は「復興門」と改称しました。

1947年3月24日、当時の北平市長何思源は、復興門の元の出入り口を基礎にプラットフォームの拡張を認め、将来的にはその南側にもう一つの出入り口を開設することを計画したのです。復活門の「券門」はコンクリートで建設され、「復活門」という名前を刻み、新たに壁に押し込める鉄の門を作りました。古代、兵士の多くは普段は城下に駐屯しており、いったん戦闘が起きると登って参加しなければならなかったため、長城の内側に一定間隔で「券門」と呼ばれる丸いアーチ型の小さな門が設置されました。またそこに城壁まで続く石段が作られました。

「十里長街」スループランの実現に向けて、1956年、北京市政府は北京の長安街延伸の第一歩として、西長安街を復興門まで延伸し、復興門プラットフォームを解体しました。復興門は遅れて建設され、早く取り壊され、後に北京で最初の高架橋がここに建設されました。

一方、建国門は開放されたままで門が設けられることはなかったです。1947年春、街の防衛を強化するため、再び封鎖され、1949年の北平解放までの同年9月にようやく再び開放されることになりました。

1958年、新中国建国10周年記念式典にあたり、北京は東長安街の拡張計画を実施し始めました。東単の東側には東西観音寺胡同と筆管胡同の南側が取り壊され、それ以降建国門内大街になりました。建国門と北側の墩台は消え、「建国門」は地名として残りました。

注目すべきは、建国門の南側で旧北京のために貴重な城壁の一部が残されていたことです。この部分は、1417年から1419年にかけての元都の南方拡張の際に加えられたもので、明弘治の時代に再建されたが、その後大きな改変はなく、古く荒れ果てた姿でした。この城壁は今でも現状維持で、東南角楼から北京駅東街東口までの城壁の一部は、現在も明城壁遺産公園として残されています。

かつての「開口部」である建国門と復興門は消えて久しいが、長い歳月を経て、長安街と北京の発展を長年に渡って見守ってきたのです。(韓晴 訳)

北京旅游网翻译

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