老北京酸梅湯(さんめいたん)は誰が発明したのか?

2022-05-20

土曜日の小満(二十四節気の一つ)が終わると、夏の暑さや乾燥の日々がやって来ます。涼しげな癒しとしてアイスドリンクが必要でしょう。北京周辺といえば、暑さをしのぐための酸梅湯に事欠かないです。

酸梅湯は、昔の北京の伝統的な飲み物で、主な材料は烏梅です。烏梅は、梅の未熟果を加工して燻製にしたものです。主に浙江省、福建省、雲南省で生産され、浙江省湖州市長興県や四川省達洲市の梅が良質とされます。『本草綱目』によりますと、烏梅は酸っぱくて温性、暑さを和らげ、渇きを癒し、中気を整える働きがあるので、冷やした酸梅湯には夏の暑さを癒し、渇きを癒し、体に栄養を与え、心を落ち着かせる健康作用があるとされています。

酸梅湯の起源については、現在ではさまざまな説があります。

伝説によりますと、元の順帝時代の末期、湖北省襄陽市で疫病が流行したとき、烏梅を売って生活していた朱元璋がこの地を通り、村人を助けるために梅を炊いてスープにしようと考え、黄色の布のとばりに「施捨梅湯,広結善縁」と書き込んだと言われています。これは、その後の元に対する反乱の世論を形成するものであった。そのため、北京の酸梅湯屋は、後に朱元璋を商売の大御所として崇めるようになりました。朱元璋は商人ではなかったので、この伝説は少し不合理に聞こえています。

北京の酸梅湯の考案者も乾隆とされています。満州では生臭さを消すために食後に酸を食べる習慣があり、入関(山海関を越え、華北に入ること)前はトウモロコシの粉を発酵させて酸湯子(スワンタンズ)を作っていたが、乾隆は消化が悪く、それ自体が穀物だと考えご飯を食べた後食べると食べ過ぎてしまう恐れがあり、御膳房に新しい製品を開発させたのです。当時、宮廷には「南果房」があり、ドライフルーツやフレッシュフルーツを保管していました。御膳房では、烏梅などの原料を使い、酸梅湯を開発しました。乾隆は酸梅湯を好んで飲み、「御制烏梅湯」は有名になり、宮廷の夏の清涼飲料水となりました。

では、どちらがより信憑性があるのでしょうか? 朱元璋が酸梅湯を発明したのは確かに間違いだが、明の時代には梅が一般食になっていたのだから、乾隆が発明したというのも間違いです。酸梅湯の烏梅、木犀、ローゼルはすべて南方のもので、昔の北京の酸梅湯は明らかに南方からの飲み物でした。清朝では、王室料理の絶対的な安全性を確保するため、皇室の厨房は厳しく管理され、料理人はほとんどが世襲で、技術も退化していたため、民間の料理を自分たちのものに変えるのは度々ありました。イノベーションを求められたのがいい加減に事を済ませたのです。酸梅湯は、長年にわたって民衆の間で流行っていて、多くの人々が食べてから、宮廷の料理人たちによって宮廷に紹介されたのではないかと推論できます。

酸梅湯の有名店としては、前門甕城の「九龍斎」、西単牌楼の「邱家」、瑠璃広の「信遠斎」などがあり、中でも「信遠斎」は最も有名です。中華民国の中頃、信遠斎の酸梅湯と夏氷果は、すでに都の名物料理となりました。

北京旅游网翻译

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