安徽会館:新しい活力を追加した歴史的建造物

2022-05-29

北京の南城地域にある胡同には、特別な建物群が隠れています。一見したところ、会館はただいくつかの古びた家屋だが、奥には非常に豊かな歴史的・文化的な意味合いを持っています。近代の重大な歴史事件や重要な歴史上の人物の多くは、首都の会館と係わりがあります。会館は、当時の北京が各省・市との重要な交流の場となり、多くの文化的流派がぶつかり合う歴史的な舞台ともなりました。今日は、安徽会館の過去と現在について、詳しくご紹介します。

南城地域の騾馬市大街から北へ魏染胡同に入り、数歩進んで東へ、北へ二度曲がると安徽会館のある後孫公園胡同に到着します。周囲は民家に囲まれているが、安徽会館の立派な殿舎の屋根が隠せません。さらに魅力的なのは、演劇文化の特色がここで際立っています。胡同の切り妻には有名な京劇芸術家の塗り絵や浮彫が施されており、鮮やかで生き生きとしています。安徽会館の戯楼はかつて京城に光り輝いており、上京した徽班 (安徽省からの劇団)が『長生殿』を公演し、譚鑫培など多くの京劇の芸術家が舞台に立ち、100年以上にわたって世間に名が知らわれています。

安徽会館は、明末清初期の史家・収集家である孫承沢の邸宅、「孫公園」の一部として清の同治10年(1871年)に建設されたものです。 安徽省は文化大省であり、徽商の発祥地でもあり、財力が豊かで、安徽省出身の官僚や文人、豪商などが北京で大きな影響力を持っています。清の時代には、各府や県が続々と北京の宣南地区に同郷会館を建設し、その数は数十に達したが、規模は概して限られており、同治初年まで北京には省級の大型会館は1つもありませんでした。同治8年(1869年)、直隷総督兼北洋大臣李鴻章は、淮軍の将兵と資金を集めて孫公園の大部分を購入し、安徽会館を開館しました。

他の省級会館とは異なり、安徽会館は上京して試験を受ける挙子のために設けられた「試館」でもなく、商工業の発展を促進するための業界会館でもなく、安徽省出身の淮軍の将軍や高官、貴人が北京での活動するための場所であり、現職の州、県級の役人や副参将以上の有力者しか受け入れていないことです。光緒24年(1898年)には、康有為をはじめとする維新の党の活動拠点となっていました。現在、安徽会館を除き、「孫公園」は胡同の名称だけが残っており、「前孫公園」と「後孫公園」に分かれています。

*新型コロナウイルスの感染予防・抑制期間中、具体的な公演情報は事前にお問い合わせてください。(陳丹丹 訳)

北京旅游网翻译

モデルコース
人気おすすめ