昔の北京城に刻み込まれた端午の文化の印

2022-06-02

端午節(端午の節句)は、端陽節、重午節、端五節、重五節、端節、菖蒲節、天中節などとも呼ばれています。端午節は春節、清明節、中秋節と並んで中国民間の四大伝統行事であり、最も多くの名称と幅広い民俗行事が含まれる伝統的な祝日でもあります。昔の北京城では、端午節の民俗行事が多彩で、歴史に記載されています。

遼・金時代以来、北京地区の端午節は我が国の端午節の全体的な特徴を受け継ぐながら、独自の特徴も持っています。元・明の時代には、射柳というゲームが次第に端午節の武戯の定番となり、皇居や軍隊で人気を博していました。金・元時代の端午節は祭天儀式を中心に、武芸を表現する射柳やバッティングによって補完され、国家が主導した節句の民俗行事だったとするならば、明・清時代以降、北京の端午節は主に天壇で邪気を払い、金魚池の周りで馬に乗って走って金魚を観賞することなど民俗行事に進化しました。

金魚池は天壇公園の北側に位置し、現在の金魚池東街、金魚池中街、金魚池西街はいずれも金魚池の跡地であります。かつてここには広大な水たまりと小さな湖が点在し、金、元、明、清から中華民国時代まで金魚が飼われ、「金魚池」と呼ばれていました。近隣住民は金魚の養殖を商売にし、数十ムーの池が点在し、多くの優良な金魚の品種を育て、市場で販売していました。金魚池一帯には上様のあずまやや楼閣が多くあり、明の武清侯であった李偉の新園はとても有名で、園内には筏に乗れる魚池のほか、梅花亭、鳬楼、船橋、魚龍亭、廻廊などの建物があり、非常に美しく壮観です。庭の水は北の三里河から引かれ、南の金魚池を経て龍須溝に流れ込んでいます。天壇北壁からここまでは、広く開放的敷地があり、競馬の祭典に適しています。金魚池の周りには柳の木がたくさん植えられており、端午節になると、馬に乗って走って金魚を観賞し、池を訪れる人が絶えません。

ちまきは端午節のお祝いの食べ物で、北京の伝統的なちまきは江米小棗あるいは江米こし餡で包まれたちまきです。端午節を前に、胡同の隣人や友人たちが互いにちまきやサクランボ、桑果、クログワイ、桃、李、五毒餅、バラを贈る風習があり、疫病退散や厄除けの願いを表します。五毒とは、ドクヘビ、ムカデ、サソリ、ヤモリ、ヒキガエルのことです。五毒餅は、五毒のイメージを刻んだ赤いスタンプを特製のバラ餅に押したもので、五毒の模様を型抜きした丸いお菓子もあります。

端午節を前に、北京の街角では、菖蒲やヨモギを小さく束ねて売る人がいます。菖蒲には邪気を払う効果があり、ヨモギには陽気を補充し、厄抜け、気血を整え、寒気や湿気を体から抜く機能があります。北京天安門広場の東側には長さ約600メートルの菖蒲河があり、西から東へ曲がりくねって南池子に至り、西苑三海の用水路であり、紫禁城の筒子河が太廟を経て南へ流れる水口でもあります。昔、菖蒲河は御溝とも呼ばれ、川に菖蒲が群がって生えていたことから名付けられました。端午節になると、人々はここで菖蒲の葉を採って門に挿します。その後、ザクロの花、ニンニク、サンタンカなどが加わり、合わせて「天中五端」と呼ばれ、五毒と相克することができます。

五毒を防ぐために、昔の人は端午節に扇子を贈ったり、子供に虎頭帽をかぶったりする風習がありました。また、昔は端午節に熊黄酒を飲んで邪気を払う習慣があり、雄黄酒を子供の額や耳に塗って、毒を防ぎ、虫除けの効果がありました。

明清時代、端午節になると、都の人々は金魚池を訪れたり、高梁橋、満井、草橋、積水潭などでピクニックしたりしました。天壇は皇室の聖域であり、その時の庶民はどのように天壇で端午節のイベントに参加するでしょうか。天壇公園の元チーフエンジニアである徐志長氏によると、荘厳な天壇の中には民家や小庭が建っているだけでなく、茶屋や酒屋、薬局もありました。

明の永楽18年(1420年)に天壇が初めて建てられた時、天壇の西門、現在の祈谷壇の西天門の南側と斎宮の仕切り壁が向かい合う位置に、神楽観が建てられました。清の時代に神楽署と改称され、祭壇や寺院祭祀用の音楽・舞踏機関と楽班の所在地を管理するところでした。明清時代に音楽・舞踏を習う皇室の最高学府として、最盛期には2,200人を超える学生が在籍していました。初期のころ、神楽観はまだ天壇の外に建てられたが、嘉靖年間に外壇が増設され、ようやく天壇の中に囲まれたのです。祭天大典は毎年予定通りに行われていないため、道士たちは暇があったら、神楽観の外郭の北、西、南の三方位に面した敷地で自宅や胡同を建て、神楽観に花を植え、茶屋や酒屋、済生堂薬屋などを開いて観光客を呼び込んでいました。天壇にある店舗は想像以上に数多く、清の嘉慶、道光年間だけでも店舗が40軒ほどに達したといわれます。

北京旅游网翻译

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