明・清時代の北京の「冰窖」の物語

2022-06-08

北京冬季オリンピックは、雪製造業者や氷製造業者などの新しい職業に火をつけ、また、氷や雪の製造や氷のサービスに対する新しい消費者需要を押し上げたのです。国家速滑館のような会場の高品質な氷の表面は、二酸化炭素による超臨界直接冷却氷技術によるものです。

製氷技術も技術の進歩とともに進化しています。古代人は近代的な技術を持っていなかったので、あらゆる方法で天然の氷を使わなければなりませんでした。その昔、中国では天然の氷を貯蔵するために氷窟が使われていた。夏が暑い北京では、古くから冬に氷を蓄え、夏に使う習慣がありました。北京市档案館には、氷室に関する資料が多数収蔵されており、そこから北京の歴史における氷室の利用や民俗文化について知ることができます。

明代に北京にあった氷室は、数が少なく、皇室が所有していたため、研究者の間では官倉と呼ばれています。官倉は主に王宮の祭壇や寺院での儀式に使われたり、夏の間、王宮で食べ物を新鮮に保つために使われたりしました。「明史-職官志」によりますと、明代の宦官は、二十四の官庁によって王家の衣食住を担当することになりました。中でも、内官の氷庫の管理は、皇室の隠し氷や氷の使用について責任を持つものでした。

雪池氷庫は、明の万暦年間(1573-1620)に建てられ、清の康熙年間(1662-1722)に再建された、北京に現存する最古の氷庫です。北京最大の人造湖である北海公園からわずか100歩のところにあり、大量の氷と良質な水源があり、宮殿からも近いので、氷の採取や運搬に非常に便利です。もともと6つあった氷室は、1つしか残っていません。

清の時代の朱一新の『京師坊巷志稿』によりますと、明代には3つの氷室があったとのことです。一つは北海の陟山門の中にある雪池氷室で、帝都の中にあるため「里氷室」と呼ばれていました。三里河の北岸にある正陽門の外、太平湖に隣接する徳勝門の外、この2つの氷室がありました。後者の2つの氷室は、都市の門の外にあるため、外氷室と呼ばれています。氷室の氷は、北海にある太液池の水から取られており、王室専用のクリーンなものです。外氷庫の氷は、内池ほどきれいでない堀の水から取られており、明代の六省などの官庁で使われていました。

明・清時代には、氷の収蔵と使用の過程に明確な規定と厳格な制度がありました。清朝の氷制度は、大きく分けて「氷を打つ」「氷を収蔵する」「氷を貯蔵する」「氷を使う」という工程に分けられます。毎年冬至を前に、工部は氷を作り、氷室に貯蔵する役割を担っていました。夏からは工部省が責任を持って各官庁に氷券を発行し、秋までその券で氷を集めていました。

清朝初期の氷室は、皇族が使用する「官窖」と、清朝の王族が設置・管理し、貴族のために氷を自給する「府窖」に分けられました。清朝時代、北京には最大で21の氷室があり、その総量は21万5700個にも及んだということです。

清朝時代の北京の地図によりますと、北京の氷室は、第一に堀、御河、什刹海、太液池など都の水辺に近い場所にあること、第二に交通の便が良いこと、という二つの原則があったということです。また、清代にはすでに民間の貯蔵庫が出現しており、官窖や府窖と同様に、永定河畔の永和氷室、什刹后海の宝泉氷室、中南海近くの聚源氷室など、お堀の水辺や什刹海に沿って開かれることがほとんどでした。

冷凍技術が大規模に導入された今日、人工氷の生産量は増加の一途をたどり、氷室で氷を隠し、天然氷を利用する歴史はとうに終わっています。ほとんどの氷室も都市建設の中で姿を消し、北京に現存する氷室は紫禁城氷室、雪池氷室、恭倹氷室の3つだけで、古都の氷利用習慣を研究する上で視覚的に印象に残るものです。(資料提供:北京晩報)

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