「北方水郷」を訪ね 人的・文化、歴史を味わう

2023-03-02

什刹海は北京市内で唯一の開かれた水面のある開放型の景観地であり、風光秀麗のため、「北方の水郷」と呼ばれる。今回、一緒にこの「北方の水郷」をともに旅し、人的・文化、歴史を味わい、古建築の趣を観賞する。

什刹海が前海、後海、西海(または貯水池と呼ばれ)の三つの区域と隣接する地域を含め、「前三海」と呼応し、一般的に「後三海」と呼ばれた。個々の土地は水で盛り上がって、明代末期に完成した『帝京景物略』の中で、「西湖の春、秦淮の夏、洞庭の秋」で什刹海の神韻を賛美する。

たおやかな自然風光のほかに、什刹海の周辺では多くの人的・文化の古跡も保存されている。

恭王府博物館

恭王府博物館は前海西街に位置して、乾隆年間に建設し始め、何度も所有者を変更したことがあった。王府は意気軒昂であり、ガーデンの景色は美しくて、中国園林建築の模範ともいえる。

恭王府の「三絶一宝」は名声が高い。第一「絶」は王府ガーデンの「西洋門」である。この西洋建築スタイルの漢代白玉石アーチは恭親王奕忻によって建設され、その形は円明園の大法海を模倣し、ドアの扁額には「静含太古」を刻んで、内には「秀挹恒春」を刻んで、重厚で古めかしいの雰囲気があり、ガーデン全体の園芸スタイルを総括した。

第二「絶」はガーデン中路滴翠岩の秘雲洞に位置する「福字碑」であり、これは恭王府の宝であり、この「福」の字は康熙皇帝の直筆であり、「康熙直筆の宝」の印鑑が刻んでおり、その字は力強くて、着想は巧で、「天下第一福」とも呼ばれる。

邀月台の東側に位置する「大劇楼」は恭王府の第三「絶」である。これもわが国で現存する唯一無二の全閉式大劇楼でもある。この劇楼の面積は七百平方メートル近くて、200あまり人が受け入れられ、気勢が雄大である。より独特なのは、この劇楼はなんのオーディオ設備がないにもかかわらず、各角度から舞台の声が聞こえ、舞台の周りに置く九つの甕が収音の役割を果たしたという。

恭王府の一つの宝は園中の「福」の字を指す。府内の至るところが「福」の字に包まれているという、一万余りの「福」字があることで、恭王府の運勢がよくて、八国連軍が北京に侵攻したときでも、この有名な恭王府は難を逃れた。

この北京で現存する唯一の清代王府建築群を散策して、静かに春の古代園林風景を楽しみ、歴史、北京と対話する。

宋慶齢旧居

後海北沿46号に位置する宋慶齢旧居もともとは、清代末期皇帝愛新覚羅・溥儀の父醇親王載豊の王府ガーデンであった。この建築は東側の建築群とおなじ醇親王王府であり、早くも康熙年間に、明珠府を建設し始め、乾隆年間は和珅(わこん)の別院になって、嘉慶年間は王府に改造して、光绪十四年間は醇親王府に改造した。

中華人民共和国が成立した以降、党と政府は宋慶齢のために北京でアパートを建てることを計画したが、彼女は国のことを重視して、何度も遠慮して拒絶した。その後で、周恩来総理が自ら計画し、この王府ガーデンを修繕して、古風スタイルの二階建ての本館を建設することにした。

園内では碧の水がくねくねと流れ、岩が重なり合って、草花が豊富に集まり、芳しい草が生き茂って、楼亭がその中に点在して、一体になって、淑やかで優雅な庭園である。宋慶齢は1963年4月からここへ引っ越し、1982年5月29日に亡くなるまで勉強、生活していた。同年10月、国によって「中華人民共和国名誉主席宋慶齢同志旧居」と名づけられ、翌年5月29日から一般公開された。

予約:「北京宋慶齢同志旧居」ウィ―チャット公式アカウント

住所:北京市西城区後海北沿46号

銀錠橋

銀錠橋は什刹海前海と後海の合流点に位置しており、単孔石造アーチで、「節式」の石の欄干、両端には八字の欄干と抱鼓(ほうこう)石があり、橋主体の両側には燕羽壁があり、橋の上には五つの漢白石材料の透かし彫りの板と六つの望柱があり、全体的にはこじんまりとした感じを出す。

銀錠橋の由来は二つの説があり、一つは銀錠橋の橋の主体はひじょうに短くて、両側の八字の翼ウォールは非常に長くて、高いところから見ると、まるで銀貨を逆さまに失せたようなものだ。もう一つの説は、当時、銀錠橋を改築するとき、橋下のコノテガシワ棒杭の間は銀錠で固定されたので、「銀錠橋」と呼ばれるようになった。

早年、北京の市街地では、高い建築は少なくて、遠いところの景色はみられにくい。しかし、晴天に恵まれると、銀錠橋に立って西の方向を眺めると、後海の水面を超えて西山の景色を満喫することができ、この景色は「銀錠観山」と呼ばれる。

予約:予約必要なし

住所:北京市西城区煙袋斜街75号

煙袋斜街

煙袋斜街は地安門外大街鼓楼前に位置しており、元代に最も早く形成された。煙袋斜街そのものは煙袋のように、細長い道はまるで煙袋の軸のように、東の入り口は煙袋口のように、西の入り口は南に折り、銀錠橋に通い、キセル袋のように見える。

昔の時、煙袋斜街は「小瑠璃場」と呼ばれ、清の朝廷が退位してから、什刹海付近に住む貴族、八旗弟子は俸給を失って、生計を維持するために、次々と骨董品字画を販売して、煙袋斜街で文房四宝、骨董品玉器、書画の表装を経営する店舗が多く開設された。

街の入り口から入ると、老北京の雰囲気が漂ってくる。古めかしい店構え、透かし彫りをした戸と窓、紺色の暖簾、まぐさには黒塗りの下に金の字を描いた看板がかかって、その多くは名家の手によるものだ。この古めかしい歩行者天国を歩くと、それらの切り紙、陶磁器、泥人形、吹き飴細工、特色スナックなどを経営する店舗は観光客を濃厚とした京味文化の雰囲気の中で没入させる。

予約:予約必要なし

住所:北京市西城区地安門外大街

北京旅游网翻译

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