
六郎庄は、北京の西部に位置し、颐和园の南東側にあります。明代には牛栏庄(と呼ばれていましたが、伝説によれば、以前この地域に大きな家族が牛の舎を設けて牛を飼育し、農耕に使用していたことからこの名前が付けられました。
明代の沈榜が著した『宛署杂记』には次のように記載されています。「(宛平)県の北西...西直門から1里離れたところに高郎(粱)橋と呼ばれる場所があり、さらに10里離れたところに北海店(淀)と呼ばれる場所があり、そのそばに小南庄、八沟村、牛栏庄と呼ばれる場所がある...」別の史料によれば、明代永楽2年(1404年)に官僚が皇帝に報告し、西湖景区の牛栏庄、华家屯、瓮山付近の堤防が洪水で160丈(約480メートル)崩壊したと記録されています。民間伝承では、牛栏庄は最初は数軒の家しかなく、水草が茂り、特に柳の木が日陰を作り、江南の風景を思わせる様子でした。『明成祖实录』によると、永楽皇帝が瓮山(現在の万寿山)に登ると、周囲を見渡すとちょうど湖のそばに美しい風景を持つ小さな村があり、柳の木が並んでおり、風が波のようになびき、まるで江南の水郷の詩情画のようであったため、皇帝は大いに喜び、それを「柳浪庄」と名付けました。

「六郎庄」という名前は、初めて現れたのは康熙51年(1712年)に内务府総監の赫奕が提出した上奏文書にあります。「六郎庄の真武廟は配殿6間、和尚の住まいは8間、銀を1,435両2匁使用し、六郎庄で庭園の住まいを30間修築し、銀を1,000両使用しました」と記されています。
民間伝承では、北宋時代に楊六郎がこの地を通りかかった際、人々は彼の名声に感嘆し、村を六郎庄と呼ぶようになり、村の小獅子胡同(通り)の入り口にある石の獅子を六郎の馬に繋ぐ柱と結びつけました。また、慈禧太后が船に乗り、長河沿いに万寿寺から颐和园に向かう途中、繡漪橋を通過する際、河の東側にある村を見て同行者に村の名前を尋ねたところ、「六郎庄」と聞いて不快感を覚えたと言われています。自身が羊年生まれで、不吉だと考えたため、村名を「吉祥庄」に改名しました。しかし、地元の人々は不満であり、今でも六郎庄と呼び続けていると伝えられています。



