北京の無形文化財|兎児爺

2024-04-09

兎児爺(トゥルイエ)はおよそ明末に端を発し、もともとは月を祭る泥人形であったものが、清の時代から次第に子供の玩具となった。現在では北京の代表的な無形文化遺産の一つとなっている。甲冑を身にまとい幟をさしているものや、昔のお役人の衣装を着て傘を差しているものがある。麒麟やトラに乗ったり、座ったりしているのもあるそうだ。また、坊主頭の先生、靴縫い、ワンタン売り、茶湯売りなどの人物型の兎児爺もある。

かつて、北京市の東四牌楼の辺には手作りの兎児爺を販売する露店があった。民間の職人たちの発想によって、兎児爺は人間味が加えられ、格好がすでに人と同じになった。造形は兎頭人身で、玉棒を手にしている。その後、戯曲角色型の兎児爺が創り出されてきた。その造形はよろいかぶとを着て、獅子や象などの猛獣、あるいはクジャクや鶴などの鳥に跨っている。

一般的に、兎児爺がかたどっているのは月のウサギ(玉兎)であり、以下のようなストーリーが比較的広く伝わっている。

ある年、北京の城下へ突然に病が流行りだし、どの家からも患者が出て、どんな薬を飲んでも快方に向わない。月の宮殿の嫦娥(じょうが)は人間が医者を求め焼香する様を見て心を痛め、玉兎を庶民らの病を治すよう地上へ寄越した。玉兎は少女の姿へ化けて北京の街へ降り、一軒一軒を廻り病人を治療した。人々は玉兎へ感謝し、皆贈り物をしたかった。しかし玉兎は何も欲しがらずに、他の人の服を借りて着るだけだった。玉兎はあるときは油売り、あるときは占い師…と男の服を着たり、女の服着たりといった風に毎日別の身なりをした。さらに多くの人々を治すために玉兎は馬、鹿、そして獅子や虎にまでを駆り北京の城内外をくまなく廻った。こうして玉兎は北京から疫病を取り除いて月宮へと帰っていった。しかし北京の人々の心の中に彼女の素晴らしい思い出はいつまでも残った。そこで人々は玉兎を象った泥人形を作り、その姿は鹿に乗っていたり、鳳凰に乗っていたり、鎧を着けていたり、様々な働く人々の姿をしていたりと、千変万化で非常に可愛い。旧暦8月15日になるとどの家も美味しい青果や豆を供えて世の中へ吉祥と幸福を持ってきてくれたことに感謝することになった。人々は親しみを込めて彼女を「兔児爺」、「兔奶奶」と呼ぶ。

兎児爺の実際の起源は月神の崇拝と神話に認められる。月に関する伝説がこれに重要な影響を生んだのである。月の中に兎がいるという伝説は春秋時代に始まった。長沙馬王堆一号漢墓から出土した帛画(はくが)は神話の内容を反映していた。それは新月の中をレイシを口に咥えたヒキガエルと白兎が飛び跳ねる絵であった。これは漢代に月へ兎がいるという神話が伝わっていたという証拠である。河南省鄭州から出土の前漢末期の壁画「東王公乗龍」には玉兎が薬をついている姿がみられる。1968年に江蘇省丹陽市で発見された無名の陵墓からは出土した2つの壁画は月と太陽を表現しており、月の方には1本の木、その下には杵と臼で薬をつくとても生き生きとした兎が描かれている。

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