『左伝』には「国の大事は祀と戎とにあり」とある。祭祀は中国古代の儀礼伝統において重要な要素であり、膨大で複雑なシステムを持っている。古代の皇室の祭祀は、対象、場所、制度儀式に厳格な規定があった。
北京の中軸線には、太廟、社稷壇、天壇、先農壇の4つの祭壇が分布している。これらの祭壇は、全体の配置、建築設計、装飾芸術、建築技術などの面で重要な価値を持ち、祭祀対象、場所、制度儀式の面でも、中国古代の皇室祭祀礼儀の強力な証拠を提供している。
この4つの祭壇で祭祀される対象は主に天神、地祇、人鬼の3種類に分けられ、中国古代の宇宙観における天、地、人の3つの基本要素に対応している。天神には皇天上帝、日月星辰、風雨雷電などが含まれる。地祇には土地、五穀、山岳、海河などがある。人鬼には祖先や人神が含まれる。
太廟

太廟は中国で最も保存状態が良く、規模の大きい皇室祖先祭祀建築群である。祖先を祭ることは、中国の伝統社会において強い倫理的意味を持ち、この儀礼は「敬天法祖」「祖を天に配する」という文化伝統を示すだけでなく、王朝の統治権が家族内で受け継がれる正当性を象徴している。


太廟は位置的に社稷壇と中軸線を左右対称に分けて配置されており、『考工記』に記されている「左祖右社」の理想的な都城のモデルを体現している。太廟の軸線上には南から北にかけて3つの殿堂形式の建築が並んでおり、享殿、寝殿、祧廟が院内の主要な祭祀建築である。その配置、機能、宗廟祭祀制度は密接に関連している。享殿は皇帝が祖先を祭る大典を行う場所であり、建築形態が最も高い。寝殿と祧廟は、祖先の位牌が日常的に「安眠休息」する場所で、両者の建築形態は似ているが、享殿よりもやや格が低い。
社稷壇

社稷壇は太社(土神)と太稷(穀神)を祭る場所である。土地と五穀は、中国が伝統的な農業国家として立国する根本である。社と稷の神を祭ることは、土地と五穀そのものの崇拝にとどまらず、国家の領土が完全で、基盤が堅固であることを祈る意味も含まれている。社稷壇は国家と社会秩序、人と土地の関係を密接に結びつけている。

社稷壇は太廟の西側に位置し、内外二重の壇垣で囲まれている。祭壇は内壇の中央にあり、正方形で、壇の頂上には五色の土壌が敷かれているため、「五色土」とも呼ばれている。これは五方、五行などの多重の意味を象徴している。この土壌は全国各地から採取され、「天下王土に非ざるは無し」という象徴となっている。

天壇

天壇は天を祭る場所で、祭祀の対象は皇天上帝である。天を祭ることは、古代の「君権神授」思想の重要な表れであり、帝王が天の命を受けていることを示し、その崇高な地位を象徴している。

天壇は、二重の壇垣で囲まれており、北側が円形、南側が方形という特徴を持ち、「天円地方」という宇宙観を象徴している。天壇内には、圜丘壇が南側に、祈谷壇が北側にあり(祈谷壇の上には祈年殿がある)、これらは明清時代の皇帝が天を祭る場所である。ただし、祈りの内容や祭祀の時期、行進する経路が異なっている。


祭壇の建築や景観デザインは、天を祭るという機能に対応して設計されている。二つの核心祭壇はどちらも円形で、地を祭る方形の祭壇とは異なる。これらの祭壇は、上中下の三層構造で、層が上に行くほど狭くなっている。特に、圜丘壇の各層の欄板や階段の数は、祭天のテーマに合わせて陽数が用いられている。祈年殿は円形の攢尖頂を持ち、青い琉璃瓦の屋根が使われている(これは、皇室建築でよく見られる黄色、緑色、黒色の琉璃瓦とは異なり、天を象徴する色である)。
先農壇

『礼記・祭統』には「天子親耕於南郊、以共齊盛(天子は南郊で自ら耕し、豊作を供える)」と記されている。先農壇の立地は、この南郊での親耕という独特な伝統を受け継いでいる。
明清時代、先農壇では三つの異なる対象への祭祀活動が行われた。内壇には、先農壇、耤田、観耕台があり、これらは耕耤礼(皇帝が自ら耕作を行う儀礼)のための礼儀施設を構成している。先農壇は農神である神農氏を祭る場所であり、耤田(儀礼のための皇家の耕地、面積は一亩三分で、「一亩三分地」という言葉はここから由来する)は皇帝や王公大臣が耕作を行う場所である。また、観耕台は皇帝が王公大臣の耕作を観賞するための場所である。内壇の北側には太歳殿があり、太歳神や十二月将神を祭る場所である。外壇の南側には神祇壇があり、天神(風雨雷電など天の神)や地祇(山川大海など地の神)を祭る場所である。
皇帝が自ら耕作を行うことで、農神への崇拝を通じて、国家が農業活動を重視していることを示している。特に清代の統治者はもともと遊牧民族であり、農神の祭りや皇帝自らの耕作を通じて、農耕文化への尊重を表し、民心を安定させようとしていた。そのため、親耕活動はより頻繁に行われた。明代の皇帝による親耕や官吏による代祭の回数は34回でしたが、清代では247回に達し、特に康熙帝と乾隆帝の治世では、それぞれ58回の祭祀活動が行われた。



